本を読む時、好みの著者というのは自然にできるものである。私の場合、そのひとりに三中信宏先生がいる。彼の著作は何より惚れ惚れするまでの博覧強記に支えられている。それでいて、細部に埋もれることもなく、明快な文章を書かれる。自分も文章を書く機会があるので、参考にしたいところでもある。
さて、色々と思うところがあって、『分類思考の世界』(三中信宏・著、講談社現代新書)を読み直した。きっかけはという、クイズにおける「ジャンル」というものの考察について多いに示唆を与えるものだと思ったからである。(この辺りの考察は後でまとめることにする。)ところが、読み進めるうちに、別な発想に至ったので、それをtwitterで流したところ、反響があったのでここで詳しくまとめておくことにする。ちなみに三中先生の「三部作」はとても面白い著作なのでお薦めしておきたい。
系統樹思考の世界 (講談社現代新書)
分類思考の世界 (講談社現代新書)
進化思考の世界 (NHKブックス No.1164)
『進化思考の世界』の中では、「系統樹思考」と「分類思考」という2つの考え方が対置される。大胆に要約するならば、「分類思考」とは、ある時間的な断面における分類パターンの認知であり、「系統樹思考」とは、その断面におけるデータから、「隠された歴史」を推定する作業である。(『進化思考の世界』pp.104-105)
さて、クイズの世界でこの2つの思考をなぞってみると面白い。
クイズの世界では、クイズの形式について割りと色々な分類が存在する。問題文の長さに着目すれば「長文」「短文」という別ができる。難易度によって「易問」「難問」の別もできる。これまで色々なクイズ大会が催されてきたが、それらの中で何回その答え・問題が出現したかによって「ベタ」「非ベタ」の別がある。発想を必要とするか、知識そのものを問うかによって「変化球」「直球」の別もある。こうした分類は多岐にわたるであろう。
こうした「分類」は、まさに今作られているクイズを「分類する」という「分類思考」のなした賜物である。おかげで、我々は例えばクイズ大会を催すときに、どういう問題が出題されうるのか、ある程度のレベルで記述できるようになった。
それでは、このクイズにおける「分類思考」に対する「系統樹思考」とはどういうものだろうか。というより、以下に示すような意味で、「系統樹思考」(というより、もう少し弱い「歴史」に対する態度であるが)ももっと注目されていいのではないかというのが、私の言いたいことである。
私が大学に入学したぐらいの2000年初頭は、「長文難問」が全盛期であった(と私は考えている)。長文とは何なのかについては、ここを見ていただくことにして、そのさなか、2002年にabcという、大学生以下限定の短文ベタの大会が産声を上げた。この大会は瞬く間にクイズ界を席巻し、もはや500人近い参加者を集めることとなった。
この現象を、「短文の大会が突如として現れた」と解釈するのが果たして適切なのかというのは疑問がある。むしろ、abcという大会の出現には、何らかの隠された「歴史」があるとするのが自然ではなかろうか。それは表には出ないかもしれないが、何らかの「歴史」がそこにはあると考えるのは自然である。
更にいうと、「長文」そのものの歴史も考える価値がある。上のリンクでは、「短文のパターン化」への批判から、長文が生まれたとしている。では、その変化はシームレスに進んだのか、それとも、あるとき突然長い文章の問題が現れだしたのだろうか。少なくとも、まだ辛うじて20代の私にもその辺はわからない。
こうした、「歴史」に関する問題意識はそのへんにゴロゴロ転がっている。もう少し例を出そう。「ベタ」というものがある。つまり、ある程度パターン化されきった問題であるが、いったいベタは何回出題されたらベタになるのか、それもよくわからない。
また、「〜ですが」という言葉で繋がれる「パラレル」という問題の形があるが、昔の問題を見ていると、「〜。では、」という言い回しも見られる。いつからこれらは「〜ですが」に統一されたのだろうか。
もっと言うと、同じ答えの問題でも、問題文が違うことがある。それらの問題の間の相互関係、時間的関係はどうなっているのか。
こうした、クイズの「歴史」に纏わる問題は多い。注意してもらいたいのは、これらの問題は単に、作った人間にインタビューするだけの「歴史」では終わらないことだ。多分、作った当人も意識しない「変化」を察知することも重要である。どんなに「(その時代において)新しいクイズ」を作ろうが、それが過去を引きずらないとは誰も言えない。当人も気づかないところで、何らかの形で誰かの影響を受けている可能性は否定出来ないだろう。そうしたものを「クイズ」の中から読み取ることはできないだろうか。
なぜ私がこういう「歴史」に興味があるかといえば、それは私のようにクイズを媒体に何かをしようという意思のある者にとっては、先人に学ぶものがとても大きいからに他ならない。加えて、自分たちの「発想」は実は先人たちの掌の上にあるかもしれないという「謙虚さ」を再確認することでもあるかもしれない。
こうした、「(当人たちも気づかないかもしれない)歴史」を復元する作業ができたなら、「クイズ」というものが辿ってきた系譜もわかるのではないだろうか、というのが、私の今の考えである。